ハンドボールの歴史(紀元前~中世)

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ハンドボールの歴史は紀元前まで遡る。ここではその中でも紀元前から中世にかけての歴史を振り返る。

ハンドボールの起源についてはあまり多くのことが明らかになっていない。

 

そのためここでは起源とされる可能性が高い古代エジプト人のボールゲーム「expulsimludere」、ローマ帝国の球技「harpasturm」、そして北アメリカの伝統的な球技「ReboteaManoconPelotaDura」の三つを紹介する

古代エジプト人のボールゲーム「expulsim ludere」

・ハンドボールの起源として最も有力なのが古代エジプト人のボールゲームであるexpulsimludereである。

 

・expulsimludereは、紀元前2000年ごろ古代エジプト人の娯楽だった様々なボールゲームの一種で、「干し草やパピルスが入った革の風船を女性が二つのチームに分かれ弾くゲーム」である。

 

・”ボールを手で扱う”、”二つのチームに分かれる”、”ボールの大きさ”などハンドボールとの共通点が多くあるためハンドボールの起源として最有力候補である。

 

・ちなみに紀元前2000年ごろの日本では縄文時代が終わりを告げようとしていた。メソポタミア文明ではハンムラビ法典が制定されていた。

 

・expulsim ludereはその後、アレキサンダー大王によって紀元前1世紀に植民地を通してローマ帝国にも広められたといわれている。

 

・実はexpulsim ludereという名前はローマ帝国で呼ばれていたこのゲームの名前であり、古代エジプトで呼ばれていた名前ではない。

 

・ハンドボールの起源として有力な説の中では最古の説である。

ローマ帝国の球技「harpasturm」

・ローマ帝国で行われていたharpasturm(ハルパストゥム)もハンドボールの起源ではないかと言われている。先ほどのexpulsimludereもローマ帝国で行われていたが、expulsimludereとharpasturmは別の球技である。

 

・harpasturm(ハルパストゥム)はという名前は「小さいボールの球技」を意味し、ローマ帝国で700~800年間にわたって人気があった球技である。

 

・サッカーボールなどに比べると比較的小さく堅い球を使い、中心線で分割された長方形のフィールド上で5~12人のプレイヤーで行われていた。プレイヤーにはポジションがあり、様々な戦略・規則もあったとされ球技として成熟していたものだった。harpasturmの規則の一つに、ボールを持っている選手だけ接触プレーができるというものがある。そのため激しいコンタクト・タックルもあったと記録されていてharpasturmは結構激しめの球技だったようである。

 

・ジュリアス・シーザーもこのharpasturmを行ったことがあると推測されている。また、ジュリアス・シーザーは兵士の体力強化のためにharpasturmを兵士にやらせていたとされている。

 

・ローマ人とイギリス人の間で行われたharpasturmの試合の記録もある。

 

・harpasturmも現代のハンドボールと共通点が多いことからハンドボールの起源であるといわれている

北アメリカの伝統的な球技「Rebote a Mano conPelotaDura」

・紀元前1000年ごろ北アメリカのメキシコあたりでもReboteamanocon pelotaduraというハンドボールに似た球技があったという記録がある。直訳すると”堅いボールを手ではねる”という意味のこのReboteamanocon pelotaduraは、主にチチメカ族の間で行われていた。

 

・Reboteamanocon pelotaduraを行う様子が描かれた多くの絵から、各町の祭りで行われている伝統的な球技であり、チチメカ族の生活の重要な部分であったと推測されている。

 

・長きにわたり人気があったようで様々なルールや形式が存在している。中には20×40フィートの土地で行うという記録もある。これは現代のハンドボールのコートと縦と横の長さの比が変わらない。

 

・多くの古代遺跡にこのReboteamanocon pelotaduraに使われたような地形が残っている。

 

ハンドボールは多くの器具や複雑な道具が必要な近代的なスポーツと違い、比較的単純な道具で行うことができるスポーツであるため、世界中の様々な場所でハンドボールに似た競技が行われていたようである。

中世

中世でのハンドボールの歴史には、中世フランスのあたりで大流行したラ・スール(群衆フットボール)というスポーツが大きく関わっている。ラ・スールはハンドボールのみならず、現代のスポーツの発展にも大きな影響を与えた。ここではそのラ・スールについて解説していく。

ラ・スール(群衆フットボール)

・ラ・スールという名前はケルト語やラテン語で「太陽」を意味する単語が語源であるとされている。

 

・ラ・スールは民衆が二つに分かれ、太陽に見立てたボールを村や町単位の広大なコートで障壁や教会の門などをゴールをとし、投げる・蹴るはもちろんあらゆる手段を用いて敵陣のゴールまでボールを運ぶスポーツ。ラ・スールには身分制度による絶対的な境界線は無かった。そのため民衆の間でとても人気があるスポーツとなりフランス全土に普及した。

 

・ラ・スールという呼び方やルール自体は地方によって異なっていたが、ケルト文化の影響を強く受けているノルマンディー地方やブルターニュ地方で特に盛んに行われていた。

 

・ラ・スールのチーム分けは村vs村、教区vs教区の対抗だけでなく、既婚者vs独身者、都会民vs地方民など様々な形式で行っていた。

・勝ったチームは豊作や息災などご利益があったとされている。

・ラ・スールをしている間はある程度の暴力は認められていた。しかし、徐々に競技がエスカレートしていくうちに農村では農作物に、都市部では家屋に損害を与え競技者自身も大けがをするなど、次第にある程度の暴力で済まないようになっていった。

・大けがを負わせた者を許すという内容の赦免状が大量に残されておりラ・スールの激しさを裏付けられている。14世紀にはフランスでラ・スール禁止令も出ている。

次第に危険性が高くなっていったラ・スールはフランス政府に禁止されるほど問題視されるようなものになってしまった。そういった経緯もあり、投げる・蹴るなど様々なスポーツの要素を含んでいたラ・スールは、姿を変えて多種多様なスポーツへと変わっていった。その結果、ラ・スールはハンドボールの歴史だけでなくサッカーやラグビーの歴史にも大きく影響を与えたようである。

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